テーマ : 「法に関して思うこと・・・」 (自論) 

法治国家 「日本」において、国民は法に従うのは当然の義務と思う事だが、
ここでは、法に関する私の考え(あくまでも非専門家、いち一般人の自論)を展開してみる。

法の頂点にあるもの・・・
それは、言うまでも無く ”日本国憲法”です。
「全ての法律は、これを基準に矛盾しないよう、より具体的に細分化していったもの」と
単純に言えばそう考えられます。

そして、法律には、上位に位置する”法”ほど優先する(権力がある)大原則があります。

ゆえに大元の”日本国憲法”を改正するとなると、国民的な世論を含めて話題となり議論される訳です。
近年は第九条(戦争放棄・・・)改正議論が賑わしていますが、当然かつ必要不可欠です。

”憲法”以下に続く ”各種法律”、さらに続く゛条例゛等は、しかるべき機関にて策定されるものですが、
その内容のほとんどが国民の大多数が知らぬ間に(告知はしているだろうが・・・)施行されてしまうものです。

こと”条例”に限って言えば、策定するのが国家レベルではなく地方自治体にあるため、
その地域ごとに様々なものが可也自由に(上位法律に明らかに抵触しない限り)策定が可能で、実際存在してます。
その土地で必要ものを設けると言う点では、理にかなっていると言えますが、
内容によっては問題点も含んでいます。

<問題定義 その1> 「不公平感」
”条例”には地域格差がある。同様の行動・内容について照らし合わせた時、
規制の度合いや、違反時の対応”科料 (反則金)”が違う。
法は万人に公平である事が原則だと思いたいが実際はそのようにはなっていない。
気になる内容があるなら、自分が住んでいる地域の条例等を一度確認する事をお勧めしたい。
  例 : ”動物愛護・管理に関する条例文”の違い

<問題定義 その2> 「策定側と遵守側の温度差」 
下位に位置する法は、より具体性を規する傾向があるので、上位法に明らかに抵触はしないまでも、
過剰規制・拡大適用を感じる文言を垣間見る。これでよいのだろうか・・・
中には、時代の流れに逆行するような改正文章を感じることも多々ある。
世論の意見を取り入れたり、策定する立場の人は、現場で真の状況を確認しているのか?!
一部の偏った意見・権力に流されて策定していないと言い切れるか!!

<問題定義 その3> 「解釈の相違」
逆に上位に位置する法ほど、具体性が乏しく、人の数だけ、解釈が存在すると言える。
ゆえに判断機関である裁判所も三段階になっていて、判決が二転三転することもあり、
同時に”弁護士”と言う商売が成り立つ訳けです。

<問題定義 その4> 「大勢をみているのか」
判断が難しいときの常套手段だか、そのポイントとして・・・

@ 世論の意見を聞いてみる。
→ 法治国家”日本”は民主主義であることから、国民の同意度合い(多数決の原理)優先とすべきである。

A 時代の流れを見据える。
→ 時代の変化・文化文明の変化・地球的環境変化・世界情勢・日本国以外の国の状況、等を考慮しているか?

B 本来の法の目的に立ち戻る。
→ 各法には、根本となる理念が存在し、条文の冒頭に必ず目的が示されているものです。
細かいことで迷ったら、本来の理念に照らし合わせて考えてみる事が大切だと思います。

<問題定義 その5> 「・・・・防止法、条項」
法の全ては、それぞれ理念があるが、それを実現する為の目的行動が示されるよりも、
抵触しないように予防策として規制が示される事が多い。
予防策の規定遵守は必要なことであるのは確かではあるが、全て100%遵守は現実ありえないし且つ監視も不可能。
  例 : ”道路交通法”(予防条項が典型的な法令)の遵守 
        →規制速度40km/h走行を常に遵守しているのは、教習試験中のドライバーぐらいです。
         一般道路を70km/hで流れている交通を遮って、全ての車両を取り締まるのは、
         ナンセンスかつ危険で迷惑な行為です。 
”道路交通法”の大原則(理念)に反します。
         「安全」かつ「円滑」な交通を確保することが
”道路交通法”の大原則です。

予防策である規定遵守違反については、その度合いと、その場の状況、特に元となる法の基本理念と照らし合わせて
判断すべきで、
一事象について一元的にダメ出しするのは本末転倒になる場合もある。


(遵守具体的規制自体に問題を感じる)
  例 : ”動物愛護・管理に関する法” 
        →ノーリード行為そのものは、危険な行為ではない。(危険を招く恐れがある行為です) 
”動物愛護・管理に関する法”に続く「過剰な条例規制(都道府県で格差あり)」をするのは、人間の安全と財産を保護目的とした予防手段の範囲を超え、"動物虐待"である。
さらに、時代の流れに逆行した”規制条例”=”悪法”だと思う。( ”過剰規制条例”自体が”違法”?!・・・・)
”悪法”は正さねばならない!!・・・それが正論として言えるかは国民の声が高まる事!! (民主主義”多数決”が答えとなります。)

ただ現状をみる限り、”一般の犬を飼っている人・いない人の意識レベル低さ”、また飼っている人の中でも「ノーリード」そのものが”悪い事”と断言する人が多い社会においては、まだまだ”犬先進国”に到達するには道のりが長く、その過程において、「過剰な規制」を設けるのは、大変迷惑な話ですが、「必要悪」 (増加する無責任な飼い主を抑制する意味で)と我慢するしかないのでしょう。

ただし、行政としてそこまで規制を課すなら代替策(無料のドッグラン設備を充実させる等)が最低限あって然るべきです。
義務と責任を負ってください!!

しかし、それはあくまでも代替策・・・根本的な解決策にはなりませんのであしからず!
民間有料ドッグランでの現状を鑑みれば判る通り・・・(迷惑・事故・トラブル多発)
「リードで制御する」より「ノーリードでも制御される」犬に育てることが重要かつ優先されると考えます。
大型犬は本気を出せば大の大人でもリードで制御は厳しいです。
公衆にて、リードをして引っ張られている状況より、ノーリード(信頼と言うリードで繋がっている)状況の方が、遥かに危険を感じません!

私は、本来の理念(”基本法”資料 @ A B C )に反していない限り、横暴な規制押し付けは「固くお断り致します。」

同時に世論的に 「公衆でのノーリード容認する」条件を満たす飼い主が増える事を期待する次第です。

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以上、自論を書き綴ったが、法律専門家同士でも意見が分かれる部分が多々あると思う。

”法とは何か”を語るとき、私、個人的には 「法と”善悪”や”正義”とは別物」 としてみている。
(「思想・宗教・国家の主義によって価値観が共通でないから」と言えば判るだろか・・・)

に関わる問題が発生した時、大切なことは、
@ まず発生した事象を客観的かつ正確に把握する。「事象は唯一絶対」 (パラレルワールドで無い限り)
A 次に話ができる(価値観が共通な)人間同士で議論し、発生した個々の事象に対してあらゆる角度、専門家・大勢判断
を考慮して解決していく事。

が理想だと思う・・・。